笑う死神





人の人生は、短い。

以前はそれ故、人を蔑んでいた。
数十年生きたところで、人は何も学べやしない。
己の身に迫る死に焦り、愚行に走る。
そんな人間が、私の目には浅薄で愚鈍にしか見えなかった。
ついこの前までは。

一体彼女の何に惹かれたのかは今となってはわからない。
ただ、彼女は輝いていた。
彼女が浅薄でも愚鈍でも無かったわけではない。
彼女の浅薄さと愚鈍さが、輝いて見えたのだ。

今まで生きてきた数千年の中で、こんなに長くて短かった六十五年は初めてだ。
濃密な六十五年だった。
光輝く六十五年だった。
愛溢れる六十五年だった。
一番生きた、六十五年だった。

彼女は今、死に逝く。
私の目の前で。

私は、彼女が息絶えそうなこの時まで、自分が死神だという事を話してはいない。
そしてこの先も、話す事は無い。
罪悪感ならある。
愛する人に、隠し事をする事はこんなにも後ろめたい気持ちにさせるのだと知る。
死神でさえも、罪悪感を感じる事があるのだ。
でも彼女は気付いているだろう。
六十五年生きていて、私の姿は寸分足りとも変わらない。
人間なら、有り得ない。

一方で、彼女は変わった。
艶のあった黒髪も、今や白髪混じりの灰色と化した。
張りのあった肌には、幾重にも皺が刻まれている。
それでも尚、彼女は美しい。
彼女は輝いている。

「ねえ」

枯れた声。
昔のような鈴の鳴る透き通った声とは程遠い。
彼女は、私に干乾びた手を差し伸べた。

「笑って」

また、そんな事を言う。
笑う必要の無い死神にとって、笑うという事は死ぬ事と同じ位に難しい。
無論、死神にとって死ぬ事ほど難しい事は無いのだが。
だが、数千年間ただの一度も動かす事の無かった私の頬筋を動かしたのは、彼女が初めてだった。
常に客観的にしか意識しなかった「笑う」という動作を、自分もできるという事を彼女に教えられた。

彼女が、弱弱しい瞳でこちらを見上げて待っている。
だから私は頬筋を上に引き上げた。
すると、彼女も私と同じように頬筋を上に引き上げた。


そして彼女は死んだ。


私が笑うという動作をして見せて、ほんの数秒。
彼女がこちらへ差し伸べた手が、事切れた様にはたりと私の腿の上に落ちる。
彼女はこちらを見つめていた。
彼女に私は見えていない。
でも、彼女の瞳には私が映っている。
だから、私は頬筋を引き上げたままでいた。
彼女が笑ってと言ったのだ。
そして彼女も笑っている。
だから私は頬筋を下ろさない。
頬筋を上げたまま、ずっと笑うという事をしていた。


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雨が降っている。
上を見上げれば、いつもはあんなに高い空が手の届くくらい低く見える気がする。
あの灰色の雲の向こう側に、彼女はいるのだろうか。
いや、もっとずっと上空。
もっともっと上の、彼方の果て。
そこに彼女はいる。

私は傘をさす。
雨に濡れていると、いつも彼女に怒られた。
「傘をささないと、風邪をひくよ」
今だから言うが、私は死神だから風邪はひかないんだ。
同じ傘に入って、彼女はいつも私の手を握った。
「冷たいね。帰ったらコーヒー淹れてあげる」
今だから言うが、私は死神だから常に体は冷たいんだ。
コーヒーを飲んでも、決して温かくはなることはない。

哀しい。
寂しい。
人間のような感情が、沸々と心の奥から湧いてくる。
頬を伝うのは雨か、それとも涙か。
いや、雨だろう。
死神は、涙を流さない。


私は笑う。
彼女が笑ってと言ったから。
彼女が笑ったままで逝ったから。
私はあれから笑ったままだ。

これからも私は、笑ったままだ。
きっとこの空の彼方で、彼女も笑ったままだろうから。
私も笑ったままでいる。
真実、永久にずっと。

                      

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