三歩前の右手





濃紺の空。
夕焼け空を越えた先にある、星の見えない空。
ぽつんと孤独に光っている金星を見上げる。
吐く息は白く、白いマフラーに顔をうずめる。
カーディガンの袖をのばして、手を包むように隠す。
今は大体、6時半ってところ。
最近はいつも学校から帰るのはこんな時間になる。
私の弓道部は本当は1時間早く終わっていたけど、6時過ぎに終わるって嘘をついた。

私の、三歩前を歩く人に。

空と同じ、濃紺のネックウォーマーに顔半分をうずめている彼の息も、白い。
彼の入っているサッカー部は全国大会出場を目指していて、いつも最終下校ギリギリまで練
習をしている。
毎日毎日遅くまで練習をしているから、嘘をつかないと一緒に帰れない。

私の、三歩前を歩く人は
一週間前に、私の彼氏になった。

喋った事はなかった。
友達に急かされて、勢いで告白してしまったら、予想外にもあっさりとOKをもらってしま
った。
その時の私にとっては告白が最終ゴールで、その先なんて考えもしなかった。

その先が、これ。
気まずい沈黙。

もっと喋る人だと思ってた。
実際に、友達といる時はわいわい騒いで、すごく楽しそうに笑ってる。
だから一緒に帰りはじめて、こんな寡黙な人だって事にびっくりした。
無言の彼の隣を歩く事が恐ろしすぎて、私は彼の三歩後ろを歩いている。

私に告白を急かした親友は、告白したからには私の方からアタックしろと言う。
確かに、告白しておいて無言じゃおかしい。
告白した意味が無い気がする。
むしろ、悪化している気もする。

正直言うと、手くらいはつなぎたい。
でも、無理だ。
隣を歩く事さえ怯えているのに、手をつなぐなんて今の私には到底不可能。
前方を歩く彼の右手を見る。
彼は黒い手袋をしていて、随分温かそうに見えた。
私も手袋買おうかなあと呑気に考えていると、彼が戸惑いがちに立ち止まって、こちらを遠
慮がちに見やる。

「じゃ・・・」

「あ、うん」

そう言って彼は、十字路を右へ曲がった。
ちょっとだけ彼の背中を見つめていたけど、すぐに目をそらして私は十字路を左に曲がっ
た。
何故か、一人になってから私はすごくほっとする。
何かから解放されたように、楽になる。
そんな自分に、私は一週間前から罪悪感を感じていた。


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濃紺の空。
今日は、あの孤独な金星さえも見えない。
濁った濃紺を見上げ、口から白い息が立ち上る。
ひどく寒い。
マフラーを口元までひきあげて、両手をこすり合わせる。
指が、かじかんで感覚がおかしい。
けれど、カーディガンの袖を手首のところまでまくって、白い掌を寒空に晒す。
前方を歩く彼の背中を見つめて、唾を飲み込む。

今日は、彼の手を握る。

今日は親友に説教を受けた。
今日こそは自分から手をつなげ、と。
彼に気付かれないようゆっくり深呼吸をする。
改めて彼の後ろ姿を見つめていると、偶然にも今日は彼は手袋をしていなかった。
三歩分の彼との距離を、二歩分にまで縮める。
そして、一歩分。
緊張と寒さで震える手を、恐る恐る伸ばす。

「っ!」

驚いたのか、彼の手はびくんと反応して、私の手は虚しくも振り払われた。
彼は立ち止まり、目を見開いて驚いた顔で私を見下ろしている。
私は頭が真っ白になって、あまりの恥ずかしさに顔が真っ赤になって、いてもたってもいら
れなくなって、思わず駆けだした。

「栗原!」

私の名前を呼ぶ声が聞こえた。
私は急に恐怖を覚えて、必死に走った。
十字路を、左に曲がる。
私は、走るスピードを緩めて、荒い息を整えた。
とぼとぼと、歩きながら濃紺の空を見上げる。
ここまで来たら、もう大丈夫だ。
彼の声も、足音も聞こえない。
でも、その『大丈夫』が、急に悲しく思えて、やっぱり罪悪感が込み上げてきた。
ため息をつくと、急に力が抜けて、目に涙が浮かぶ。
しかし、次の瞬間、突然左手がふわりと宙に浮かんだ。

「うわッ」

驚いて思わず手を引っ込めようとしたが、私の左手はしっかりと握られていて振り払えなか
った。
まさかと思って見上げると、そこには案の定、彼の顔があった。
彼は走って来たのか、白い息が途切れ途切れに立ち上っては寒空に消えていく。
私が硬直していると、彼の方もどこか気まずそうにネックウォーマーで口元を隠した。
訪れる沈黙。
すると、彼はふいに私の手を引っ張って歩きだした。
私が慌てて彼について歩きだすと、彼はこちらを見ないままぎこちなく言葉を紡ぐ。

「今日から・・・家まで、送る」

最初は何を言っているのかはよくわからなかったけど、そういえば彼の家は正反対の方向
だ。
私が戸惑ったまま無言でいると、彼は何故か立ち止まって初めて真っ直ぐ私を見た。
思わず目が合ってしまって、逸らす事もできずに私は硬直する。

「右手・・・出して」

私は変に怯えていて、すごく戸惑いながら恐る恐る右手を差し出した。
すると、彼は私の右手に彼がいつもしていた黒い手袋の片方をはめた。
その時に私は、彼が左手だけ手袋をしているのに気付いた。
彼は私の右手に手袋をはめおわると、再び私の白い左手を冷たい右手で握った。
私は、歩きだした彼の横顔をまじまじと見つめてしまった。
彼は、私の視線に気づいたのか恥ずかしそうに、ちらりと私を見たあと頬を赤らめて向こう
を向いてしまった。

濃紺の空の下。
私は初めて、笑ったかもしれない。


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